トップページ > 図解|医食同源辞典



【ニ】





作成日:2013.2.25|更新日:

ニンニクの科学

1,1 日本史に見られるニンニク

1.1.1 はじめに

 ニンニクに関する日本史上の出来事が耳に入ってくる。例えば、徳川家康は薬の知識が豊富で、明の李時珍の著書『本草綱目』1)を読んでいたとか、常々健康に注意を払い飲食に気をつけたので,75歳まで長寿を保ったとか,しかし,茶屋四郎次郎の招待で、南蛮料理の鯛のてんぶらをニンニクのすりおろしを浸けて食べたが,おいしいので食べすぎて食中毒を起こし死んだ2),とかである。その後,ニンニクに関するさまざまな啓蒙古や歴史書の逸話を読んだが、ほとんどの出典は同じであった.これらの中で,木下繁太朗著の『蒜(ひる)・にんにく一その薬効認識と差別の歴史一』3)が秀逸で特に印象的であった。他の本で語られている逸話はほとんど解説つきで収載されており、ニンニク臭と差別を結びつけた発想は興味深かった.と同時に、人類の文明発祥当時には貴重な医薬品として扱われていたニンニクが大量栽培に成功し、医薬品、食品、嗜好品として一般化し、文明の栄枯盛衰の陰で、悪臭のために嫌われていたにもかかわらず、人類の健康・長寿を支え続けた。日本だけの歴史は、木下繁大朗の著書3)がある。

ニンニクはなぜ医薬品にならないのか

 ニンニクは人類の文明発祥とともにあり、すでに3,500年以上前から栽培され、医薬品としていろいろな疾病治療に使われてきた.にもかかわらず、なぜ医薬品として近代医学の前面で使われないのか、ということであった。
ニンニクの殺菌作用は絶えず医療に利用されてきた
第1は、ニンニクの殺菌作用など毒性を利用した治療は、最近でこそ抗生物質の出現で日当りが悪いが,古代から現代まで絶えず行われてきた。これら以外の治療にニンニクを使うことは文明の発展を待たねばならなかった。
医薬品の発達は文明の栄枯盛衰と一致している
 医薬品は文明の発祥とともに食品と毒物の間に生れた。医薬品は文明の発展に従い食品と毒物の両分野をゆっくりと少しずつ占拠していったが,文明の衰退に従っていとも簡単に占領地を失っていく。ニンニクは毒物との境界では医薬品としての位置をすでに安定させ、生ニンニクの毒性を、すなわちその抗菌・殺菌作用、殺虫作用を医薬品として治療に上手に利用してきたが、食品との境界では一進一退の状態であった。なぜならニンニクはかつて医薬品としてさまざまな疾病に使われてきたが、食品としても重要な位置を占めるようになったからである。すなわち近代科学が要求する食品としての条件、栄養(熱産生能力)があるか嗜好品かで、それに安全性が高いこと、をニンニクがクリアーしたのである。ニンニクは食品のなかでも最も栄養価(熱産生能力)が高く、かつ種々のビタミン類を豊富に含んでいることが証明された。さらに不安定成分アリシンは殺菌作用,アリシンの分解物にはいやな臭いのほかに美味と香りの成分があることがわかり,嗜好品としても広く利用されるようになったのである。毒作用の主成分もアリシンであることがわかり、その処理の仕方で安全性が確保されるようになった。一方、ニンニクはアリシンの生成を除外した場合も薬効があり、その薬効は緩和で、速効性というより連続摂取でさまざまな慢性疾患に有効であり、養生・養命(慢性疾患や老化の予防)にも有効であることがわかり,最近,脚光を俗びだしたのである。そして、その薬効の主成分,作用機序の研究がはじまったのである。現在、この分野で医薬品と食品の戦いが激しく行われているのである。今、文明はさらに発展しているのである。医薬品は文明の発展に従いまず急性疾患の治療薬、そして疾患は徐々に長くなり、続いて慢性疾患の予防・治療薬(養生)、老化の予防薬(養命)と医療および医薬品が開発されてきた。反対に衰退に向うと、薬はあっという間に消え、食品・俗信になっていったのである。われわれは歴史上に、現在食品であるが、これを薬として利用した治療を見ることができる。

ニンニクと古代エジプト人

『エベルスパピルス』;世界最古の薬物治療書

 1911年,9個の粘土模型のニンニクの鱗茎がエジプトのエルマハスナ(EI Mahasna)にある墓で発見された.エジプト学者、ペトリ卿(W.Petrie)は紀元前3750年頃、ファラオの時代よりもはるか昔のものと説明している。ツタンカーメン王の墓からも、乾燥して完全に保存されたニンニクの鱗茎が6個発見されている。他の多くの古い墓からも発見されている。なぜ墓にニンニクがあるのだろうか。かつては宗教と医療はきってもきれないものであったが、宗数的な、または医学的な意味があったのであろうか. 『エベルスパピルス(The Papyrus Evers)』4)は紀元前1500年以前に書かれた世界最古の薬物詣寄書で、1872年にドイツ人のエジプト学者エベルスCG.Evers)により発見された。古いエジブト語で書かれているためその翻訳を読むことになるが、それも手に入らず、翻訳の紹介書4)'を読むのがやっとであった.約80の疾患と811のその治療薬(すべて処方)が記載されており、ニンニクは22の処方に含まれているといわれている。その翻訳の紹介書にニンニクの入った処方が8処方記載されている。その内容は疲労、衰弱、手足のふるえを伴う神経系疾患、月経不順や堕胎(婦人病、"met"(神経系の慢性疾患らしいが現代医学に該当する疾患はない)、心循環系疾患、目の開きが悪く鼻づまりを伴った便秘や、首にできた腫瘍の治療の処方である。上記の処方はほとんどが慢性疾患や老化の予防・治療のためである。現代に照らし合わせてもかなリレベルの高い医療が、紀元前3500年から紀元前1500年頃に行われていたことは明確である。現在,やっと慢性疾患や老化の予防が医療で取り上げられはじめたことが、すでに3,500年前に行われていたのである。当時。この分野は現在よりも文明が発展していたと患われる。

ヘロドトスとピラミッド建設労働者

歴史の父といわれているギリシアのヘロドトス(Herodotus:紀几前490〜420年頃)が次のような興味深い逸話を著書『エジプト史』5)に残している。
 紀元前450年頃,ヘロドトスはエジブトを旅行して、ピラミッド建設の労働者に関心をもった。ピラミッドの上にエジプト象形文字の刻銘があった。内容はピラミッド建設労働者が食べたニンニク、玉葱、ラディシュ(大根の一種)の量と費用であった。さらに、銀16,000タレントが3品目だけの支出に払われたと通訳がこの刻銘を読んでくれたことを非常にはっきりとおばえていた。ニンニク、玉葱、ラディシュは莫大な費用を払っても労働者の健康を保持するのに絶対必要であったのだ。
 この逸話からニンニクや玉葱は庶民の食料となっていたと述べる人が多い。確かに,現在の医療レベルでは,慢性疾患や老化に伴う疾患の予防や健康保持は,医薬品でなく食品で袖うと考える人が多い。しかし、当時も医薬品と考えて使用していたと考えられる理由として、食品としてはあまりにも高価である上に、この3品目だけをわざわざ刻銘しているからである。ラディシュは「ディオスコリデスの薬物誌押によると、利尿作用,感覚を鋭敏にする作用があり、食後に食べると消化を助けるなどたくさんの効能が記載され、ニンニク、玉葱と同様に医薬品として取りあげられている.さらにニンニクや玉葱の大量摂取は有毒とあり、ラディシュも摂取する量は少ない。高価なものを毎日少量摂取することは栄養効果より疾病の予防・治療効果を目的としていたと考える。激しい労働による疲労・衰弱、種々の慢性疾患や感染症などの予防を目的にしていたのではないか。すなわち、使用目的は医薬品としてであった。また、わざわざ刻銘したのはピラミッド建設労働者にのみ与えられ、庶民には手に入りにくかった神の食品(医薬品)であったためと患われる。 時代が下り紀元前5世紀になると、エジブトの文明はすっかり衰退し、ニンニクは医薬品としての適応範囲が狭められ、主に感染症,虫くだしの治療に使用する以外は食品として扱われるようになってきた。ヘロドトスの案内人がニンニクの効能を全く知らなかったのは当然である。ギリシアの風刺詩人ユヴェナール(Juvenal,60〜127年A.D.)6)はエジプト人の無知をニンニクと結びつけ、詩を歌っている.

「迷信深いエジプト人よ
 貴方途が神として崇めている怪物は神でないと誰でも知っている。
 貴方達は玉葱をたくさん食うことは罪であり,ニンニクの鱗片一つ一つに神の力が 秘められていると信じている。 信心深いエジプト人は庭の隅々まで神の宿る植物で一杯にしている。」)

 この頃になるとニンニクのいろいろな治療効果が忘れられ、ただ神の力が宿っている植物といわれる食品になっていた。すなわち文明の発展期には医薬品であったが、衰退期には食品となっていった。医薬品としての痕跡は神の力を秘めた草という言葉(俗信)に含まれている。
加工法によって適応疾病が異なる
 第2は、ニンニクの大量栽培が可能になり、安価で簡単に手に入るようになったが長期保存ができない。すなわち、生薬として品質の安定を図ることがむずかしく、市販の医薬品として商品化できなかったことである。さらに最近、加工法によって有効成分が異なり、そのために薬効も変わり,疾患の適応範囲が異なってくることがわかってきたのである。しかしこのことは今にはしまったことではない。過去のニンニクを使った治療法をよく読めば、ニンニクの加工法が疾病に対しそれぞれ異なっていることがわかる。このことはすでに『エルベスパピルス』に記されているのである。『エルベスパピルス』のニンニクの入った8処方だけでも、疾病に応じて他の生薬と一緒にすり漬したニンニクを家鴨の油で煮て飲んだり、ビールや甘いビール、ワインと混ぜて飲んだり、蜂蜜と混ぜたり、鱗茎のまま煮たり漬けたりして使用している。
 ニンニクが長年にわたって医薬品として使われ続けてきたことは確信できた。文明の発展期にはいろいろな疾病に対する治療が発展し,ニンニクが使われたが,衰退期には医薬品としての使用が減って、それなりの文明水準で使われていたのである。最近の自然を離れた人々の生活により、ニンニクが医薬品としてますます存在価値がなくなると考えたが,近代科学の進歩でニンニクが医薬品になるための障壁が取り除かれ、再びニンニクの活躍する気配が感じられてきた。

ニンニクとローマ人

 しかし,『エルベスパピルス』にはニンニク単昧の薬効に関する記録は見あたらない。本草学の台頭は次の文明を待たねばならなかった。エジプト文明が衰え、その医学が消滅したあと、新しい文明の担い手はギリシアであった。ギリシア医学のなかではヒポクラテス医学派(紀元前5〜4世紀)が有名である。しかしヒポクラテス医学派は生薬(本草)自体の探索はわずかしかしていない.紀元前3世紀に活躍したデイオクレスがギリシア本草の祖といわれている.本草学はローマに引き継がれますます盛んになった。ローマ時代を代表する本草書は紀元1世紀に活躍したディオスコリデスの『薬物誌』7)と犬プリニウスの『博物詰』である。『薬物誌』は俗信的・伝聞的要素が排除され、合理的な所見で貫ぬかれているが、『博物詰』は俗信をいたるところに採用している。ローマ帝国が没落期に入ると、学力、知力は低下し、それにつれて健康の指針となる医書、本草書の内容もますます低俗化していった。しかしディオスコリデスの声望は衰えることなく生き続けた。彼によって確認された生薬の単昧の効能はそのまま中世ヨーロッパ、アラビア世界、近代へと受けつがれていった。
 印刷術の発展で、1499年にギリシア詰腹がはじめて刊行され、1554年にイタリア詰腹、そして続々と翻訳版が出版され、薬物学的探究が羽ばたきはしめた。『ディオスコリデスの薬物誌』は日本語にも翻訳されている.同書の中でニンニクは第2巻の「刺激性のある薬草類]に分類されている。日本語訳の記述を以下に示す。
「ニンニクには辛みがあり、暖め刺激する作用がある。鼓腸を解消するが、腹をかき乱し、胃を乾かし、のどの渇感をひき起こす。また、体表に浮腫や癩を生じさせ、視力の低下をもたらす。これを食べると、條虫を下し排尿を促す、蛇や毒蛇に咬まれたときはなににもまして特効薬的に効くが、それにはニンニクを食べる前か後にブドウ酒を軟むとか、ブドウ酒の中に細かく砕いて入れ服用するとよい.同じ目的にパップ剤として外用してもよいが,これは狂犬に咬まれたときにも用いられる。また食べても効く。水が変わったときにもよい。ニンニクは気管を浄化し、生のままあるいは煮たものを食べれば慢性の咳を鎮める.マョナラの煎じ汁と一緒に軟むとシラミやシラミの卵を殺す。また、焼いて蜂蜜をまぶしたものを塗ると、眼のまわりの皮下出血や脱毛症を活す。ただし脱毛症に用いるときは必ずカンショウ軟膏(ナルド香資の一種)と混ぜる.塩や油と混ぜて用いると小腰抱疹に効く.また蜂蜜と混ぜたものは、白斑、苔雍、ホクロ、頭の化膿した潰瘍、フケ、癩を消す.松脂のとれる桧の心材および乳香と一緒に煮たものを口に合むと、歯痛を鎮める.鼠に咬まれたときイチジクの葉とカミンとを混ぜパップ剤にして用いる。葉の煎じ汁は、坐浴に用いると月経を招来し、後産を排泄させる.また煙蒸しても同じ目的に使える.これと黒オリーブを一緒に砕いたものは利尿作用を示し、血管の口を開かせ、水腫患者にもよく効く.」ディオスコリデスの示した薬効はほとんどが急性治療のためのものであった。古くエジプトで認められた慢性疾患や老化の予防のための使用は全くみられない。慢性疾患や老化の予防の痕跡は大プリニウスらの俗信的と呼ばれる表現にみられる。以後、ディオスコリデスに勝る薬物書はヨーロッパにはみられない。

中国における本草学の発展

中国も早くから文明が発祥し、高度の医療が存在し、医書、薬物書も数多く存在していた。代表をあげると薬物治療書としては張仲景著の『傷寒論』,薬物(本草)書として『神農本草経』がある.これらは紀元3世紀前半に書かれたといわれている。

『傷寒論』は経験的に配合した102種の処方からなっており,患者の症状や体質・体力からどめ処方に該当するかがわかるようになっている。
 『神典本草経』はすでに散逸してしまったが、これを改訂した陶弘景(456〜536年)の『神農本草経集注』によって知ることができる。『神典本草経』では365種の薬物を上・中・下に分類している.上薬ぱ君"と称し不老長寿の薬である。害はなく、連用が可能で、身を軽くし体力を増す。いわば養兪のための保健薬である。中薬は上薬の"君"に封じ臣"にあたり、病を防ぎ体力を袖なうもので、毒の有無をよくわきまえ適宜配合して用いる。いわば養生のための保健薬である。下薬ぱ佐使"と呼び、病を直すのを主とし、毒性も強いので長期にわたる適用は慎しむとある。いねば今日の治療薬に相当する。
 こうした医療は鍼灸、指圧・擦摩とともに中国では前漢、後漢を通じて成立し、行われていた。この医学がわが国にも伝えられていく。
 薬物治療(処方の創作)と本草の探索は、中国王朝の栄枯盛衰にもかかわらず脈々と続いて、たくさんの本草書が発刊され現在に至っている。本草に関する代表的書として李時珍著『本草綱目』1)と1975年発刊された『中薬大辞典』があげられる。

中国へのニンニクの伝来(『集注本草』)

中国のニンニクは張麿が招来したと信じられている。中国にはもともとニンニクに似たものがあって蒜(和名:ひる)と呼ばれていた。西域のニンニクが入ってきて、最初は訪(和名:こ)、胡蒜そして大蒜(和名:おおひる)と呼ばれるようになった。
したがって、蒜は小蒜(和名:こひる)と呼んで区別した。大蒜がはじめて登場した本草書は陶弘景の『神典本草経集注』7巻である。略して『集注本草』と呼んでいるが,内容は当時まだ存在していた『神農本草経』の365種と新たに加えた『名医別録』の365種,計730品、それに彼自身の知識を注に加えたものと考えられている。ニンニクは『神泉本草経』の365種の生薬に入っていないし、『傷寒論』にも登場しない。『名医別録』にあり,蔀と蒜がともに菜の下薬に分類 されている。『名医別録』はニンニクが中国で登場する最も古い本草書である。ニンニクに関する記述は次のとおりである。

『集注本草』

 「葫は味が辛、性が温、有毒である。意識識愉を散じ風邪を除き、毒気を殺すなどがおもな薬効である。五月五日に独子(鱗片が一つのとき)を採って薬に使うのが最もよい。五臓に帰し、久しく食べると目を損なう。今は一般に茄を大蒜といい、蒜を小蒜という。その気が類して相似たるものだからだ。性は最も悪臭で食えないものだ。世間では一般に鰻(えそ:飲の一種か?)や肉にこれをあえて食べるが、性を損じ、命を損なうことこれより甚しきはない。生で食うもので煮るべきものでない。青魚と酢で食べると顔色が黄色になる.珠芽を植えると、初めは独子の麹となり、翌年に普通の麹になる。
 蒜は昧が辛、性が温、無毒(『本草綱目』では小毒)である。眸、腎に帰す。コレラ,胃腸病の治療に主効があり、穀物を消化し、胃を理し、中を温め、邪蝉・毒気を除く、五月五日に採る。
 小蒜の若葉は煮て食べられる.五月になると葉が枯れ,根を取る.臭い.味は辛,性は熱,胃の寒冷,コレラの治療が主動である.煮て飲む.渓流の虫毒を殺す。体を損なうため長期に食べてはならない.」。大蒜は生で食べ,小蒜は生や煮たりして使用するといっているのに興味があり,何らかの意味があるように思える.さらに,陶弘景は小蒜が野生とは全くいっていない。記述からはかえって栽培品ととれる。以下に栽培品との記述がある.。『本草綱目』では菜部巻26に,ニンニクを「蒜,山蒜,大蒜に分類して,蒜は小蒜とし,野生であったものを早くから栽培したもので,野生種は山蒜,渾蒜としてそのまま使用されている。家蒜には2種類あって,鱗茎が比較的小さく,鱗片も少なく非常に辣いのが蒜(小蒜)である.鱗茎が大きく鱗片も多くて辛さに甘味を帯びているのが萌(大蒜)である」と記述している。すなわち,当時,大蒜も小蒜も栽培種であったことは確かである。大蒜が中国に渡来したのは西域との交流(紀元前1世紀)が はじまってからで,3世紀前半頃には医薬品としてまだ普及していなかった.大蒜・小蒜が医薬品としての市民権を全国的に得られたのは4〜5世紀頃と考えられる。

小蒜も外来種か

 『中薬大辞典』9)の日本語販では,大蒜は学名 Allium sativum L.,和名ニンニク,小蒜は学名 Allium scrodoprasum L.,和名ヒメニンニク,山蒜は学名 Allium nipponicum Fr.et Sav.,和名ノビルとなっている.『ディオスコリデスの薬物詰』日本訪販のニンニク,SKOORODON(Allium sativum.)には何種類かの栽培種が記載されている。このはかにオフィオスコロドン(Ophioskorodon,学名Allium salivum L.,和名:ヒメニンニク)と呼ばれる野生種もニンニクと呼ばれ,日本語でヘビニンニクと訳されている。小蒜とオフィオスコロドンは学名が同じなので同種かもしれない。遺伝子による分類を待たねばならない。
 また、大蒜、小蒜ともに栽培の条件次第で鱗片ができない場合がある。さらに在来種という蒜が医薬品としてはじめて登場するのは、莉とともに『名医別録』で、それ以前の本草書には見られない。筆者は蒜も外来種で、訪より以前に中国に入ってきたのではないかと考えている。




脚注および関連項目





WEEF

Copyright (C)WINDOFWEEF All Rights Reserved. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system