122 Chinese thought



中国の思想(6) 老子・列子(改訂版)

作成日:2018.08.16|更新日:

老子

老子(ろうし)は、春秋戦国時代の中国における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。 史記の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある。 老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する[4]。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている。

生涯にまつわる伝説

一般に知られた伝来の伝記では、老子は周王朝の王宮法廷で記録保管役として働いていたという。ここで彼は黄帝などいにしえの著作に触れる機会を多く得たと伝わる。伝記では、老子は正式な学派を開祖したわけではないが、彼は多くの学生や高貴な門弟へも教えを説いたとされている。また、儀礼に関する多くの助言を孔子に与えたという叙述も様々な形で残されている。
『神仙伝』など[40]民間の伝承では、周の定王3年[41](紀元前603年)に母親(「真妙玉女」または「玄妙玉女」)が流星を見たとき(または、昼寝をしていた際に太陽の精が珠となって口に入ったとき[43])に老子を懐妊したが62年間(80年間−81年間、72年間または3700年間などの説も)も胎内におり、彼女が梅の木にもたれかかった時に左の脇から出産したという。それゆえ、老子は知恵の象徴である白髪混じりの顎鬚と長い耳たぶを持つ大人の姿で産まれたという。他の伝承では、老子は伏羲の時代から13度生まれ変わりを繰り返し、その最後の生でも990年間の生涯を過ごして、最後には道徳を解明するためにインドへ向かったと言われる。伝説の中にはさらに老子が仏陀に教えを説いたとも、または老子は後に仏陀自身となったという話(化胡説)もある。
中国の歴史上、老子の子孫を称する者は数多く現れた。唐朝帝室の李氏は祖先を老子に求め、「聖祖大道玄元皇帝」とおくり名され、ますます尊崇を受けた。これら系譜の正否は判断がつけられないが、老子が中国文化へ大きな影響を与えている証左にはなりうる。

思想から見る老子

政治において老子は「小国寡民」を理想とし(『老子道徳経』80章)、君主に求める政策は「無為の治」(同66章)を唱えた。このような考えは大国を志向した儒家や墨家とは大きく異なり、春秋戦国時代の争乱社会からすればどこか現実逃避の隠士思考とも読める。 しかし、このような思想は孔子の『論語』でも触れた箇所があり、「微子篇」には孔子一行が南方を旅した際に出会った百姓の長沮と桀溺という人物が子路を捕まえて「世間を避ける我々のようにならないか」と言う[64]。同篇には楚の国で、隠者・接輿と名も知られぬ老人が孔子を会う話がある[64]。このように、楚に代表される古代中国の南方は、特に春秋の末期には中原諸国との激しい戦争が繰り広げられ、それを嫌い隠遁する知識層が存在した[62]。老子の思想は、このような逃避的・反社会情勢的な思想に源流を求めることができる。

「小国寡民」国家論

老子が描く理想的な「小国寡民」国家は、とても牧歌的な社会である。
老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、料理も衣服も住居も自給自足で賄い、それを楽しむ社会であるという。隣の国との関係は、せいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するようにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭している。
中国の共産主義革命以後、老子のイデオロギーがどんな社会階級から発せられたものか議論となり、范文瀾は春秋末期から戦国初期の没落領主層の思想に基づくと主張した。マルクス主義の呂振羽は、都市商人に対する農村の新興地主らの闘争理論だと述べた。侯外廬は戦国時代に疲弊する農業共同体の農民思想の代弁だと主張した。貝塚は、政治腐敗に嫌気が差し農村に逃れた知識層か、戦乱で逸民した学者階級などと推測する。しかし、この問題は解決を見ていない。



列子

『列子』(れっし)は、春秋戦国時代の人、列禦寇(河南鄭州人)の尊称(「子」は「先生」というほどの意)だが、一般的には、列禦寇の著書とされる道家の文献を指す。別名を『冲虚至徳真経』ともいう。
『漢書』芸文志に列禦寇の著として『列子』8巻が見える。 『天瑞』、『黄帝』、『周穆王』、『仲尼』、『湯問』、『力命』、『楊朱』、『説符』の8巻、多くの寓言により、道家的思想を伝える。
『荘子』等の内容を引くなど、古来より単独の著者により記述されたものではないと見られている。現存の8巻には仏教思想も含まれており、この部分はのちに混入されたともいうが、現存本は魏晋代以降に成立した偽書であるとの説も根強い。


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