124.4 墨家


神風研究室 参考資料 Code 20151029 




作成日:2015.10.29|改訂日:

墨家とは

 墨家(ぼくか、ぼっか)は、中国戦国時代に墨子によって興った思想家集団であり、諸子百家の一つ。博愛主義(兼愛交利)を説き、またその独特の思想に基づいて、武装防御集団として各地の守城戦で活躍した。墨家の思想は、都市の下層技術者集団の連帯を背景にして生まれたものだといわれる。代表的な思想家に、墨タイ(墨子)がいる。
 戦国時代に儒家と並び最大勢力となって隆盛したが、秦の中国統一ののち勢威が衰え消滅した。

基本思想(墨家十論、五つの思想)

以下が『墨子』における墨家の十大主張である。全体として儒家に対抗する主張が多い。また実用主義的であり、秩序の安定や労働・節約を通じて人民の救済と国家経済の強化をめざす方向が強い。また全体的な論の展開方法として比喩や反復を多様しており、一般民衆に理解されやすい主張展開が行なわれている。この点、他の学派と異なった特色を有する。特に兼愛、非攻の思想は諸子百家においてとりわけ稀有な思想である。

  • 兼愛 兼(ひろ)く愛する、の意。全ての人を公平に隔たり無く愛せよという教え。儒家の愛は家族や長たる者のみを強調する「偏愛」であるとして排撃した。
  • 非攻 当時の戦争による社会の衰退や殺戮などの悲惨さを非難し、他国への侵攻を否定する教え。ただし防衛のための戦争は否定しない。このため墨家は土木、冶金といった工学技術と優れた人間観察という二面より守城のための技術を磨き、他国に侵攻された城の防衛に自ら参加して成果を挙げた。
  • 尚賢 貴賎を問わず賢者を登用すること。「官無常貴而民無終賤(官に常貴無く、民に終賤無し)」と主張し、平等主義的色彩が強い。
  • 尚同 賢者の考えに天子から庶民までの社会全体が従い、価値基準を一つにして社会の秩序を守り社会を繁栄させること。
  • 節用 無駄をなくし、物事に費やす金銭を節約せよという教え。
  • 節葬 葬礼を簡素にし、祭礼にかかる浪費を防ぐこと。儒家のような祭礼重視の考えとは対立する。
  • 非命 人々を無気力にする宿命論を否定する。人は努力して働けば自分や社会の運命を変えられると説く。
  • 非楽 人々を悦楽にふけらせ、労働から遠ざける舞楽は否定すべきであること。楽を重視する儒家とは対立する。
  • 天志 上帝(天)を絶対者として設定し、天の意思は人々が正義をなすことだとし、天意にそむく憎み合いや争いを抑制する。
  • 明鬼 善悪に応じて人々に賞罰を与える鬼神の存在を主張し、争いなど悪い行いを抑制する。鬼神について語ろうとしなかった儒家とは対立する。

五つの思想とは、兼愛主義、非攻主義、尚賢、実利主義(節葬・非楽)、超宿命主義(非命)。


組織

 墨家集団は鉅子(きょし)と尊称された指導者の下、強固な結束で結ばれていた。その証左として『呂氏春秋』の記述によれば、楚において、守備していた城が落城した責任をとって鉅子の孟勝以下、墨者400人が集団自決したという。城から脱出して孟勝の死と鉅子の引継ぎを田襄子に伝えにいった使者の墨者二人も、楚に戻って後追い自殺したという。このような強固な結束と明鬼編の存在から、墨家集団は宗教集団的色彩をも帯びていたであろうと思われる。

歴代鉅子

墨子、呂氏春秋等に散見される鉅子の名前は以下の通り。(なお、末期の墨家は三墨、別墨と称されて分裂しており(韓非子参照)、末期墨家の鉅子についての詳細は分かっていない)

墨子

1.墨子 初代
2..禽滑麓 二代目
3.孟勝 三代目
4..田襄子 四代目

墨子

 墨子(ぼくし、生没年不詳、紀元前450〜390頃?)は中国戦国時代の思想家。河南魯山の人。あるいはその著書名。墨家の始祖。一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説した。いわゆる墨子十大主張を主に説いたことで世に知られている。諱は?(羽の下に隹)という。最初、儒学を学ぶも、儒学の仁の思想を差別愛であるとして満足せず、独 自の学問を切り開き、墨家集団と呼ばれる学派を築くに至った。
生誕地は魯であると思われる。墨(ぼく)という名前から、墨(すみ)を頻繁に使う工匠、あるいは入れ墨をした囚人であった、などの諸説が生まれたが、詳しいことは全くわかっていない。司馬遷の史記・孟子荀卿列伝における墨子についての記述でも、「蓋し墨子は宋の大夫なり」(恐らく墨子は宋の高官であろう)などと憶測の文章になっている。前漢代から早くも謎多き人物であったようである。かなりの学があったようであるから、卑しい身分の家柄の出身では無かった可能性が高い。当時は、学問するにも書物を読むにも相応の家柄でなければ出来なかったからである。

著書

 著書『墨子』(53篇現存)は墨子本人やその弟子の思想を記した書物。大部分は墨子本人による記述ではなく、その弟子によって編まれたとみられる。一部が散逸しており、元の姿は無い。近年の先秦時代由来の出土文献と比べることで、墨家集団消滅(後述)以来、清代末までほとんど編集の手が加えられてこなかった事が伺える。

第一構成 「親士」「修身」「所染」「法義」「七患」「辞過」「三弁」 断想集。
第二構成 「尚賢」「尚同」「兼愛」「非攻」「節用」「節葬」「天志」「明鬼」「非楽」「非命」「非儒」 「十論」。墨子の主要論考。
第三構成 「経上」「経下」「経説上」「経説下」「大取」「小取」 「墨弁」。墨子の哲学、幾何学等を記した論文集。
第四構成 「耕柱」「貴義」「公孟」「魯問」「公輸」 言行録、説話集。
第五構成 「備城門」「備高臨」「備梯」「備水」「備突」「備穴」「備蛾傅」「迎敵祠」「旗織」「号令」「雑守」他に散逸して編名が分からないもの10編 城(すなわち市街地)を守る為の詳細かつ具体的な技術論集。

墨子、および墨家の全体像

 墨子と弟子とのやりとりからは、功利主義的な多くの弟子を諭すのに苦労する墨子の姿が散見される。また、墨子自ら楚に赴いて、宋を攻めようとする楚王を説き伏せようと努力することもあった[3]。このような幾多の墨子の努力の甲斐有って、思想集団として、また、兼愛・非攻の究極の実践形と言える防御・守城の技術者集団として、墨家は儒学と並び称される程の学派となった。
 墨子の没後、墨家集団は三墨と呼称される三つの集団に分裂するも、未だ大勢力を誇るが[4]、秦帝国成立後、突如として各種文献から墨家集団の記述は無くなり、歴史上から消えてしまった。なぜ墨家は忽然と消えてしまったのか。焚書坑儒の言葉に代表される秦帝国の思想統制政策により、集団として強固な結束をもっていた墨家は儒学者その他の思想派よりも早く一網打尽にされ、一気に消滅したと思われる。 さらに漢代になると、墨家と激しく対立していた儒家が一大勢力となった為、墨家思想排斥の動きが加速したであろうことは想像に難くない。
 その後、墨子の思想は中国でほとんど顧みられる事が無く、清代まで時代が下る。清末の動乱期になって西洋文明を積極的に摂取していく動きが中国に広がる中で、墨子の思想はキリスト教の思想に酷似しているとの見地から再研究を始める学者が徐々に現れ始めた。その代表的な学者に孫詒譲がいる。かれら清末の学者らによって、墨子の思想は2000年以上の雌伏を経て再評価されるようになった。

逸話

 楚の王は伝説的な大工公輸盤の開発した新兵器、雲梯(攻城用のはしご)を用いて、宋を併呑しようと画策する。それを聞きつけた墨子は早速楚に赴いて、公輸盤と楚王に宋を攻めないように迫る。宋を攻めることの非を責められ困った楚王は、「墨子先生が公輸盤と机上において模擬攻城戦を行い、墨子先生がそれで守りきったなら宋を攻めるのは白紙にしましょう」と提案する。机上模擬戦の結果、墨子は公輸盤の攻撃をことごとく撃退し、しかも手ごまにはまだまだ余裕が有った。王の面前で面子を潰された公輸盤は、「自分には更なる秘策が有るが、ここでは言わないでおきましょう」と意味深な言葉を口にする。すかさず墨子は「秘策とは、私をこの場で殺してしまおうということでしょうが、すでに秘策を授けた弟子300人を宋に派遣してあるので、私が殺されても弟子達が必ず宋を守ってみせます」と再び公輸盤をやりこめた。そのやりとりを見て感嘆した楚王は、宋を攻めないことを墨子に誓った。使命を終えた帰り道、宋の城門の軒先で雨宿りをしていた墨子は、乞食と勘違いされて城兵に追い払われてしまった。墨子の御技は、救われた宋人にもわからない程の素早さであった この逸話から「自説を頑なに守る」という意味の「墨守」という故事成語が生まれた。

2004年に当時の小泉純一郎首相が、イラクへの自衛隊派遣に関する国会論争において墨子の「義を為すは、毀(そしり)を避け誉(ほまれ)に就くに非(あら)ず」という言葉を引用して自説を主張した。

松岡正剛の墨子評

 墨守という。絶対に守り抜くという意味だ。歴史的には、墨子の死後も師の教えを守りつづけた墨家の言動と態度のことが墨守なのである。墨家はそれほどに師の墨子を大切にした。しかし、墨守にはもうひとつの意味があった。それは専守防衛という意味だった。墨家はたんなる思想集団ではない。戦国期の思想集団としても、同時期の儒家とは比較にならないほどに体系化された思想と論理をもっていたのだが、そのうえ実は、強力に組織された軍事集団でもあった。初期こそ怠惰な者も役得目当ての者も多かったのだが、やがてはどんな集団にもありがちの、堕落する者や脱落する者がほとんどいなくなっていた。墨家は戦国期最大の思想的軍事集団あるいは軍事的思想集団の総称なのである。
 ところが、この墨家集団が始皇帝による秦の建国事業のなかで、忽然とその姿を消してしまう。それだけではない。その後の中国2000年の歴史において墨家はまったく忘れられ、絶学の道を辿ったのである。なぜなのか。その理由がいまもってわからない。まるで時限装置を隠しもっていたかのように、墨家は消えた。
 こんな思想集団は稀有である。いや、おそらくは空前絶後であろう。こんな事例はほとんど歴史に登場していない。
 墨子は、本名を墨擢(ぼくてき=テヘンはない)という。生涯には不明なところが多く、生没年さえわからない。
 孔子と同世代とも、孔子没(前479年)後の出身不明の人とも言われるが、その言行録の『墨子』には「耕柱」「貴義」「公孟」「魯問」があって、これらが墨家誕生のころの経緯を知らせてくれる。
 それらによると、墨子が創成した学団の本拠は魯の国にあった。孔子の学団と同じ国である。けれども『論語』はただの一度も墨子にふれることがない。墨家はかなり多くの門弟を集めたネットワークをもっていたから、その名が孔子に届かないはずがない。それがふれられていないというのは、墨子や墨家集団が孔子よりも後の時代の活動だったということになる。一方、孟子は墨子のことを強い口調で非難し、墨家思想の流行を憂いていた。ということは墨子の活動は孟子より少し前の活動期だったということになる。
 いずれにしても諸子百家の時代の半ば、紀元前5世紀くらいに墨子は活動していたにちがいない。「儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・従横家・雑家・農家・小説家」の九流十家に加えて、兵術・方術・医術を専門とする諸子が、ある意味ではクリエイティブに、ある意味ではデスペレートに争っていた時期である。
 そうした諸子百家のなかで、意外におもわれるかもしれないが、墨家が最も勢力をもっていた。韓非子も「世の顕学は儒墨なり」と書いている。
 ところが孟子の批判だけでなく、諸子百家のいずれの派からも墨家はことごとく無視された。それだけならまだしも、その後の歴史家たちもまったくといってよいほどに墨家の思想と活動を扱おうとはしなかった。あれほど古今の史料にあたった司馬遷ですら、墨子については伝を採らず、たった24字の注記にする程度なのである。そこまでしているのを見ていると、これはひょっとして、あえて墨家を歴史から抹殺する意図があったとしか思えない。
 そのように墨家が扱われたのには、理由がないわけではない。あまりに墨家の思想と行動は独創的であり、あまりに奇怪であって、また、あまりに頑固きわまりないものをもっていた。  まずもって、墨家はことごとく儒家に逆らった。孔子の『論語』が鬼神を相手にしなかったのに対し、墨子は鬼神をこそ確信すべきだと説いて(天志・明鬼)、儒家がそもそも祭礼を重んじているのに鬼神だけを排斥するのは自家撞着だと非難した。また、儒家がその礼と楽とを並べて尊重したのに対しても、墨子は歌舞音曲などはいたずらに妄想や幻想をもたらすだけだと言って、これを公然と軽視した(非楽)。もっと実用に徹するべきだと考えたのだ。したがって、葬礼なども簡便にすますべきだと説いた(節葬)。
 このように儒家イデオロギーに真っ向から対立する墨家は、天志と明鬼の関与を信じるがゆえに、人は天の志に従うべきだという哲学をもっていて、そういう天の下にいる人はすべからく兼ね合って博愛に徹するべきだと説いた。
 これが有名な「兼愛」である。
 この兼愛主義も儒学的立場からすると甚だもって煙たいもので、儒家の愛は一家の愛を中心に国家愛にまで高めようとしているのだが、墨家はこれを「別愛」(差別愛)だと批判した。  墨家の別愛批判はとことん貫かれたようだ。世界史上最初の普遍的博愛主義ともいうべきほどである。しかし「兼愛」は君子と臣下のあいだに上意下達の制度と哲学をおこうとする者にとっては、邪魔なものである。国をつくるにも障害になる。墨家はこのような事情からも、各派に嫌われ、排斥されることになる。
 これだけでも墨家の異例の特質が際立つが、さらに墨家の異様な相貌を代表する思想と行動が「非攻」であった。
 一般に、人を殺すことは、どんな時代の、どんな政治家も思想家も容認していない。村や町で一人の人間を殺すことは、ただちに犯罪とみなされる。それなのに戦争となると、多数の殺害が平気で容認される。一人の殺害を国法や社会の法で裁いている一方で、他方では多数の殺害を正当化する何かが動いている。いったい戦争とは何なのか。いっさいの哲学と制度と愛を踏みにじるためにあるものなのか。
 戦争を仕掛ける行為をこそ問うべきである。相手に攻撃をかけたい社会意識と国家主義こそ打倒すべきである。
 墨子と墨家はこのことに敢然と主張した。一個の黒や少数の黒を見ているときは、それは黒だと言いながら、多数の黒を見るときはそれを白だと言うのはおかしいのではないかと、その詭弁の真っ只中に向かって、反旗を翻した。
 これを墨家の「非攻」論という。
 攻撃による戦争をすべて否定しようとしたものだ。
 しかしながら、これはふつうなら単なる理想主義あるいは反戦主義というもので、ジョージ・ブッシュの戦争が始まってしまえば、それですべては押し潰される。それがふつうである。いくら反戦を唱えても、そんなものはほとんど無力になりかねない。
 ところが墨家はここからが異常だったのである。「非攻」ではあっても「墨守」なのである。戦いは決して仕掛けないが、その戦いに屈することも肯んじえない。墨家はここで立ち上がって、守り抜くための戦争を断固として挑む。
 実際に、墨家がどこでどのように守備戦闘にかかわっていたかという記録は少ない。しかし、さまざまな史料や見解を総合すると、墨家は頼まれれば、どんな都邑の城郭の防御のためにも傭兵的集団として出向いていた。そのリーダーを巨子(鉅子)といった。
 巨子が組み立てる戦術は微に入り細に及んでいて、敵の攻撃を数十のパターンに分け、そのひとつひとつに用意周到な反撃をもたらす計画を積み上げた。また、それらの多様な作戦に対応できるだけの軍事訓練と軍事機器の開発を怠らなかった。
 たとえば、敵が城の外に土塁などを積み上げてそこから矢を射たりする攻撃の「臨」に対しては、場内に土塁をさらに高く積み上げて矢を同時に何本も連射する「連弩」(れんど)を発明して対抗する。梯子を使って城壁を越えようとる敵には、今日でいうハシゴ車にあたる折り畳み式の「雲梯」を開発して、一気に火を落とす。敵が水を使ってくるなら、あらかじめ城内に水位の高低の地形を作っておいて、その水路におびき寄せ、船を加速して逆襲する。敵が穴をあけてくる「突」を用いてくるなら、墨家は逆トンネルを掘って迷路で迎え撃つ。  ざっとこうした作戦が兵器の開発とともに、ふんだんに用意されるのである。けれども、そのいっさいは守り抜くための戦闘だったのである。
 墨家軍団がそうとうに強力であったらしいことは、魯や秦の君主たちがしばしば墨家に援軍を求めて危機を潜り抜けている記述からも、うかがえる
 墨家はこれを応じて、まず作戦を練り、軍団を配備して、よく敵と闘った。このような墨家軍団において最も奇妙なことは、墨家の集団自体は城塞を築くわけでもなく、また攻撃されるわけでもないのに、つねに攻撃する者にのみ自ら進んで姿をあらわして対抗し、自らの主戦場を次々に移していっていることである。
 わかりやすくいうなら助っ人だが、ただひたすら助っ人をするために哲学と兵器を磨くというのは、やはり異様である。ひとまずそれを軍事的傭兵組織だとみなしても、それなら「兼愛」の思想も「非攻」の思想も必要はない。相手に勝つための傭兵組織なら、先制攻撃もありうるからである。敵が攻めてくるまで待つだけの傭兵など、ありえない。
 また、わかりやすくいうなら、これはさしずめNPO型の支援組織ということにもなるけれど、戦闘に対してはつねに過激であろうとしているところが、やはり変である。軍事的NPOとみなしたとしても、やはり守備だけの"受けの戦闘"に徹するところが理解しにくいものになっている。
 しかも、ふだんの墨家集団はかなりおとなしい。目立たない。諸国を遊行する布広班、学団の典籍や教本を編集する講書班、食料調達から守城兵器の開発まで担当する工作班などに分かれ、非常のための日常の充填にのみ徹してばかりいた。
 墨家が集団をつねに別動組織のように分派していたことも、当時の諸子百家の集団のなかでは格別に風変わりだった。
 荘子は、墨子亡きあとの墨家が三派に分かれたと書いていて、墨家に内部分裂がおこったように読めるのであるが、どうもそうではなくて、あえていくつもの分派を作り出していたとも想定できる。戦国時代、儒家が八派に分かれたように、墨家はやむなく三派に分かれたのではなかったのである。
 このような墨家集団が、秦の始皇帝の建国を前にして跡かたもなく姿を消してしまうのだ。
 いったい何がおこったか、その経緯をたどるのは容易ではないが、ひとつには集団自殺をしたとも考えられる。すでに巨子孟勝の時代、采邑没収に侵攻してきた楚王の直轄軍と戦って、城が守りきれなくなったことがあるのだが、このとき孟勝は集団自決をしようとして、弟子の徐弱に「そんなことをしては墨家の系統が絶える」と諌められている。しかし孟勝はおめおめ生きていてもいったん失敗したわれわれの汚辱は晴れるわけではない。きっと宋の田襄子がわれわれの気概を知って墨家の意思を伝えるだろうと言うと、徐弱も納得して、師とともに自決してしまったというのだ。こういうことが何度かおこったのだろう。
 しかしもうひとつには、戦国時代が終焉を迎えつつあって、秦の始皇帝による一大事業に墨家が役割を果たせなかったか、役割を果たしたにもかかわらず評価されなかったという事情も関与していただろうと思われる。秦の国家システムの基本は、封建制を廃して郡県制に移行するところにあった。墨家の理想は封建制にある。とくに郡県制の主唱者である丞相李斯が、封建制にまつわる民間人の蔵書と読書に問題があるとみて「挟書の律」の制定を求めたときに、始皇帝がこれを裁可して「焚書」を断行するにおよんで、墨家はもはやこれまでと息絶えることを選んだようにも思われる。古代戦国時代の"薔薇の名前"の遂行だった
 けれども、いっさいはいまのところは謎なのである。何も詳しいことはわかっていない。ただ、戦国時代を駆け抜けた最も強力な軍事集団が「兼愛」と「非攻」を説いて、数々の"敵"を沈黙させていったことだけが、残るばかりなのである。
 墨家の「墨」とは入れ墨のことではなかったかという説がある。本当かどうかはもとより知るべくもないのだが、本当のような気もするのは、もし墨家の組織が入れ墨まで彫りこんでの紐帯によって結ばれていなかったのなら、これほど容易に一網打尽を甘んじることもなかったろうと思われるからである。
 かえってその強靭な集団維持力と組織紐帯力が災いして、まるでヤクザか暴力団か任侠の徒のごとく、国家の犠牲になっていったとも想像されるのだ。
 そういえば、秦墨とよばれた一団がいた。そのようによばれるからには、秦が傭った一団である。秦の爆発的な進行にはおそらくこの秦墨の活動があずかっていたのではあるまいか。しかし、かれらは"官軍"ではなかったのだ。相楽総三ではないが、一国の確立が成就したあとは、どこかで粛正されてしまったのであろう。
 墨家は「任」の一字をしばしば標榜した。この「任」は墨家こそ潰えたものの、姿を変えて太平道や五斗米道に、また『水滸伝』のなかに蘇っている。
 ひるがえって、墨子その人が賤民の出身だったという説がある。きっと工人の技術をもっていた。あるいは数学の技法に長けていたかもしれない。墨子はやっと清の時代になって評価されることになるのだが、そのとき清は西洋列強の餌食になろうとしていた矢先であった。慌てた中国の知識人たちは、ついに墨子を探しあてたのである。そして、「西欧の学は古来、わが墨子に備われり」と気がついた。けれども、時すでに遅かった。あの中国にして、墨子を思い出すのが遅すぎた。
 ここにおいてぼくがふと思うのは、はたして"日本の墨子"をわれわれは知っているのかということである。いつの日かそんな話をちゃんとしてみたい。
参考
墨子については原典を読むのがいいけれど、それにしても参考になる解説書が乏しい。そこでひとまずは「諸子百家」の流れと特徴から入ることを薦めるが、それが見えてきたところで浅野裕一の『墨子』(講談社学術文庫)などを紐解かれることだ。しかし、もっとおもしろいのは酒見賢一の小説『墨攻』(新潮文庫)を読むことだ。「非攻」は「墨攻」であったという逆説を駆使して、まことに痛快だ。この作品は森秀樹によるマンガにもなって、高橋秀元やまりの・るうにいをおおいに喜ばせたことである。

孫 詒譲

孫 詒譲

孫 詒譲(そん いじょう、Sun Yirang、1848年 - 1908年)。字は仲容、号は籀?。清末の学者・教育家。浙江省温州瑞安出身。儒学者の家に生まれ、幼時より学問を好み、13歳で『広韻姓氏刊誤』を、18歳で『白虎通校補』を著した。兪?・黄以周とともに清末三大先生と呼ばれており、章炳麟も高く評価している。1873年より国家の危機の際には墨家の思想が役に立つと確信し、『墨子』に校注を加え『墨子間詁』を著した。また亀甲獣骨文字を研究し、成果を『契文挙例』としてまとめている。さらに教育の必要性を唱え、『温処学務分処暫定学堂管理法』では「国民の智愚賢否は国家の強弱盛衰と関連している。初等小学校を各地に設置し、村から不学の家をなくし、家から不学の童をなくすべきである」と主張している。

 以上、ネット情報を中心に墨家について俯瞰した。それを踏まえ墨家の思想を著作からなにを現在に汲み取っていけるかを考えてみる。







『墨子』(徳間書店)の構成

 『墨子』は墨子自身の書いたものではなく、また書かれた年代も同じではない。優子が君主や弟子に説いた主張とその言行、および墨家の学問的成果を弟子たちが集大成したものである。
 現行の「墨子」は71編から成り、うち18編は失われたままである。これらの諸編は、その形内容から五つに分類できる。

第一組 「親士」「修身」「所染」「法儀」「七患」「辞退」「三弁」

第二組 「尚賢」「尚同」「兼愛」「非攻」「節用」「節葬」「天志」「明烏」「非楽」「非命」「非儒」

第三組 「経上」「経下」「経説上」「経説下」「大取」「小取」

第四組 「耕柱」「貞義」「公孟」「魯問」「公輸」

第五組 「備城門」「備高臨」「備梯」「備水」「備突」「備穴」「備蛾傅」「迎献詞」「旗幟」「号令」「雑守」

第一組の七編は内容がバラバラであり、脱落も多い。この七編について見方が二つに分かれている。一つは、その思想が儒家に近いとみて、墨家の最も原初府な思想を伝えたものであるとする説、もう一つは後世の補遺または墨家の余滴であるとする説である。
 第二組の各編は、「非儒」が上下二編に分かれているほか、他の十一は上申下の三綱から成っている。上中下の各祠は独立してはいるが、論旨は同じである。墨家の十人主張が述べられている。墨子の死後、墨家は相里氏の墨、相人氏の墨、郵陵氏の墨の三派に分裂した。上中下に分かれたのは、それぞれ三派の伝えたものを集めたからといわれる。合計三十二編のうち現存するものは二十五編である。 
   第三組の六絹には、主として後期墨家の論理学的思惟および幾何学、力学、光学、物理学などの科学知識が断片的に集められている。
 第四組の五編は、墨子の言行を記録したものである。そのうち「公輸」はまとまった話であるが、他の四編は短い話を集めたもので、その体裁は『論語』に似ている。
 第五組の十一編は、題名からも察せられるように守城の法について述べたもので、ほかに散快して編名のわからぬものが十編ある。
 本書では、まず墨子の人物像を知るために「公輸」を先におき、次に墨家の十大主張のなかから、「尚賢」「兼愛」「非攻」「節葬」「非楽」「非命」をえらび、他に論文体として「非儒」「親士」「所染」「七患」をえらんだ。最後に、優子の言行を集めた「耕柱」「貴義」「公孟」「魯問」を排列している。


公輸編

公輸

墨子と戦争技術者

 おそるべき新兵器が発明された。これを使って戦争の準備がすすめられている。この噂を耳にした墨子は、発明者のもとにかけつける。技術者であり思想家である墨子は、科学技術が伺に奉仕すべきかということに無関心ではいられなかった。

「少なきを殺さざるを義として而も衆きを殺すは類を知ると謂うべからず」
「その文軒を舎て、隣に敞輿(へいよ)ありてこれを窃まんと欲す」
「神に冶むるものは、衆人その功を知らず、明に争うものは衆人これを知る」

1 新兵器と殺人

公輸盤が楚の国のために雲梯という攻城の兵器をつくった。それを使って、宋の国を攻めようというのだ。
 その噂をきくと、墨子はただちに斉の国を出発し、昼夜兼行で、禁国の都邪にかけつけ、公輸盤に面会した。
 「いったい、何のご用で?」と公輸盤がきいた。
「北方で、ある男がわたしを侮辱しました。あなたの力をお借りして殺してしまいたいのです」と愚子がいった。
 公輸盤は、顔をしかめた。
「十金を差し上げます」と墨子は重ねていった。
「人を殺すようなことは、義としてできません」と公輸盤はこたえた。 
 墨子は立ちあがって、ていねいに頭を下げた。「それでは、おきき願います。わたしは北方にいて、あなたが一様をつくり、宋を攻めるという噂をききました。
 宋にどんな罪があるというのでしょう。いま、楚の国に余っているものは、土地であって、足りないものは人民です。その足りないものを殺して、余っているものを奪うのは、智とは申せません。罪もないのに宋の国を攻めるのは、仁とは申せません。そればかりか、この道理をわきまえながら、しかも王を諌めないのは、忠とは申せません。また諌めて、しかもききいれられぬようでは、強とは申せません。
 先ほどあなたは、人を殺すようなことは、義としてできないとおっしゃった。そのあなたが、たくさんの人間を殺そうとなさる。それでも類推の理をわきまえているのでしょうか」
「おっしゃるとおりです」と公輸盤がこたえた。
「それでは、どうして中止しないのです」
「もう王に説いてしまったのです」
「では、わたしを王にひきあわせてください」
「わかりました」

(公輪盤〉技術者の元祖。大工の神様'として有名で、現在も中国各地にその事蹟にまつわる伝説が多く、日本における左甚五郎といった存在。「戦国策」や「呂氏春秋」には公一般となっている。外国出身の人であったので、魯班ともいわれた。公輸は号、盤は名である。魯の定公または哀公の時代に生まれた人といわれ、また一説には魯の昭公の子であるともいわれる。中国古代の技術者で、楚にあって楚王のために宋を攻める武器を考案したことが、「呂氏春秋」に伝えられている。
〈雲梯〉 高いはしご状の兵器。これを敵の城にかけて攻撃する。一説には、検車、つまりはしご車といわれる。
〈類推の理〉 原文は「類」。この類概念にもとづく類推法は墨家の論理学上の発見とされる。帰納法的論理学の方法といってよく、「墨子」では、随所でこの論法を適用して、相手の矛盾をついている。

  •   公輸盤為楚造雲梯之械成。将以攻
    宋。子張子聞之、起於斉、行十日十夜、
    而至於邱、尼公輸盤。公輸盤日、夫
    子如意焉為。子墨子日、北方有侮臣、
    願精子殺之。公輸盤不説。子墨子日、
    請献十金。公輸盤日、吾義固不殺人。
    子墨子起再拝日、諸説之。吾従北方
    聞、子為梯将以攻宋。宋如罪之有。
    荊国有余於地、而不足民。殺所不足、
    面争所有余、不可謂智。宋無罪面攻
    之、不可消仁。知面不争、不可消息。
    争面不得、不可消強。義不殺少而殺
    衆、不可測知類。公輸盤服。子墨子
    日、然胡不已乎。公輸盤日、不可。
    吾既已言之王矣。子墨子日、胡不見
    我於王。公輪盤日、諾。

 公輸盤、楚のために雲梯の賊を造りて或る。もって宋を攻めんとす。子墨子これを聞き、斉より起ち、行くこと十日十夜にして、邪に至り、公輸盤に以ゆ。公輸盤曰く、「夫子、何をか命ずることをなす」。子墨子曰く、「北方に臣を侮るものあり、願わくは子によりてこれを殺さん」。公輸盤説ばず。子墨子曰く、「請う十金を献ぜん」。公輸盤曰く、「わが義もとより人を殺さず」。子墨子起ちて再拝して日く、「請うこれを説かん。われ北方より聞く、子、梯を為りもって宋を攻めんとす、と。宋、何の罪かこれあらん。荊国は地に余りありて、民に足らず。足らざるところを殺して、余りあるところを争うは、智と即うべからず。宋、罪なくしてこれを攻むるは、仁と謂うべからず。知りて争わざるは、忠と謂うべからず。争いて得ざるは、強と謂うべからず。少きを殺さざるを義として而も衆きを殺すは、類を知ると謂うべからず」。公輸盤服す。子墨子曰く、「然らばなんぞ已(や)まざるか」。公輸盤曰く、「不可なり。われすでにこれを正に言えり」。子墨子曰く、[なんぞわれを王にに見えしめざる」。公輸盤曰く、「諾」。










盗癖

 墨子は王の前に進み出ると、こうきりだした。
  「ここにある男がいます。立派な車をもちながら、隣家のぼろ車を盗もうとします。豪華な衣装をもちながら、隣家の粗末な着物を盗もうとします。穀物や肉があるのに、隣家の糠や糟を盗もうとします。この男をどう思いますか」
  「盗癖があるにちがいない」
  「お国の領土は五千里四方もあるのに、宋国の領土は五百里四方しかありません。これは、立派な車をぼろ車とくらべるようなもの。お国には、雲夢の沢に犀や鹿が満ち、江漢の川には魚や貝類がとれて、天下一の豊かさを誇っているのに、宋国では、雉子(きじ)、兎、鮒などのごくありふれたものですら、手に入りません。これは、穀物や肉を抑や糟とくらべるようなもの。お国には、また、松、梓、楠などの大木が生えているのに、宋国にはそういう大木けありません。これは、豪華な衣装を粗末な着物とくらべるようなもの。
 王の将軍たちが宋を攻めるのは、ちょうど、盗癖のある男と同じではないでしょうか。王の義'に傷がつくだけで、なんらうるところはありません」
 「たしかにお説のとおりだ。だが、公輸盤の立場もある、わざわざわしのために雲梯までつくって、宋を攻めとるという以上、いまさらやめるわけにいかぬ」
 墨子は、公輸盤のほうに向き直った。そして、革帯を解くと、これを城郭にみたて、小さな木札を手にして、これを兵器になぞらえ、公輸盤に攻めさせることにした。
 公輸盤は、機をみてくりかえし攻撃に出たが、墨子はそのたびに防いだ。ついに公輸盤のほうは、攻撃川の木札が尽きてしまった。一方、墨子の手中にはまだ防禦用の  札が残っていた。   「わたしの負けです」と公輸盤がいった、「しかし、わたしは、どうすればあなたに勝つかを知って   いる。だが、それはいわずにおきましょう」   「わたしも、どうすればあなたがわたしに勝つかを知っている。だが、それはいわずにおきましょう」 帰路、墨子は宋を通りすぎた。
途中、大雨にあって、村里のなかで雨宿りしようとしたが、村人に追い立てをくってしまった。
−「人知れず危機を救ったときには、人々はその功績に気づかない。これみよがしに騒げば、その功績は知られるのだが・・・」

 〈禽滑釐〉 禽子ともいわれる。はじめ儒家の子夏の門に学んだが、のち墨子に師事した。墨子の高弟である。墨子に兵法を学び、守城の法を修得した。          



  •   子墨子見王曰、今有人於此、舎其
    軒、隣有敞輿、而欲窃之。舎其錦
    繍、隣有?褐、而欲窃之。舎其梁肉、
    隣有糠糟、而欲窃之。此為伺若人。
    玉目、必為有窃疾矣。子墨子日、則
    之地方五千里、宋之地方五百里、此
    猶交軒之与敞輿也。荊雲有夢、犀?
    鹿麋満之、江漢之魚???、為天下
    富。宋所為無堆屯鮒魚片也。此哨巣
    肉之与糠糟也。荊有長松文梓、??
    予章。宋無長木。此猶錦繍之与?褐
    也。臣以三吏之攻宋也為与此同類。
    臣見大王之感傷義而不得。王日、善
    哉。雖然公輸盤為桟為雲梯、必取宋。
     於是見公輸盤。子墨子解帯為城、
    以牒為械。公輪盤九設攻城之機変、
    子墨子九距之。公輸盤之攻械尽、子
    墨子之守禦有余。公輸盤?。而目、
    召知所以距子矣、召不百。子墨子亦
    日、召知子之所以距我、召不言。楚
    王問其故。子墨子日、公柚子之意、
    不遇絞殺臣。殺臣末莫能守、可攻也。
    然臣之弟子禽滑餓等三百人、已侍臣
    守禦之器、在末叙上、面持楚寇矣。
    雖殺臣、不能絶也。楚王日、善哉。
    召請無攻末矣。
     子墨子帰週末。天雨。庇其間中。
    守間者不円也。故旧、治於神者、衆
    人不知其功、争於明者、衆人知之。


子墨子、王に見えて曰く、「今ここに人あり、その文軒を舎て、隣に敞輿(へいよ)ありて、これを窃(ぬす)まんと欲す。その錦繍(きんしゅう)を舎(す)て、隣に?褐(じゃかつ)ありて、これを窃まんと欲す。その嚇肉を舎て、隣に糠糟ありて、これを窃まんと欲す。これをいかなる人となす」。王曰く、「必ず窃吹ありとなさん」。子墨子曰く、「別の地、方五千里、宋の地、方五百里、これ文軒の敞輿におけるがごとし。荊に霊夢あり、犀?鹿麋(さいじびろく)これに満ち、江南の魚???(ぎょべつげんっだ)は、天下の富たり。宋はいわゆる雉兎鮒魚(ちとふぎょ)もなきものなり。これ梁肉の糠糟におけるがごとし。別に長松・文梓・梗梢・予章あり。末に長木なし。これ錦繍の?褐(じゃつかつ)におけるがごとし。臣、三吏
の宋を攻むるをもってこれと類を同じくすとなす。臣、大王の必ず義を傷いて得ざるを見る」。王曰く、「善いかな。然りといえども公輸盤わがために雲梯をなり、必ず宋を取らんとす」。 ここにおいて公仙盤を見る。子墨子、帯を解きて城となし、牒をもって械となす。公輸盤九たび城を攻むるの機変を設け、子墨子九たびこれを距(ふせ)ぐ。公輸盤の攻械尽きて、子墨子の守禦余りあり。公輸盤詣す。而して曰く、「われ子を距ぐゆえんを知れども、われ言わず」。子墨子また曰く、「われ子のわれを距ぐゆえんを知れども、われ言わず」。楚王その故を問う。子墨子曰く、「公祐子の意は、臣を殺さんと故するに過ぎず。臣を殺さば宋よく守ることなし、攻ひべきなり、と。然れども臣の弟子禽滑董ら三百人、すでに臣の守禦の器を持し、宋城の上に在りて楚の寇を待てり。臣を殺すといえども、絶つこと能わず」。楚王曰く、「善いかな。われ語う宋を攻むるなからん」。 子墨子帰りて宋を過ぎる。天雨ふる。その?(りょ)中に庇せんとす。?を守る者、内(い)れず。故に曰く、「神に冶むる者は、衆人その功を知らず、明に争う者は、衆人これを知る」。

墨子の生涯や行動を示す記録は論敵によって抹殺され、今日ほとんど伝わっていない。この編は、墨子の足跡と人間像を知る数少ない手掛りのひとつである。墨子はたんなる観念的な平和論者ではなかった。弱小国を侵略の危険から守るためには、身を挺して行動に立ち上がる「行動家」'であった。公輸盤との問答、楚王との問答を通して、墨子の真面目は遺憾なく発揮されている。この一編は墨子の人間像を浮彫りにするとともに、。科学技術の役割'という今日的な問題をなげかける。公輸盤も墨子も、ともに当時第一級の技術者、しかも武器の設計に長じていた。二人のちがい−それは前述にみられるとおりである。ちなみに、春秋時代には、戦争の規模はそれほど大きくはなかった。動員される兵力はせいぜい二、三万であった。戦車で整然たる密集隊形を組んで交戦し、一、二日で勝負のケリがついた。ところが墨子の生きた戦国時代になると、戦争の方式は一変した。動員される兵力は十万単位になり、秦と趙との間で戦われた長平の戦いでは百万近い大軍が動員された。戦争規模を拡大させた要囚のひとつとして、武器の発達をあげることができる。春秋時代の武器は、戈、矛、剣、弓矢などが主で、銅製品であったが、戦国時代にかけて冶金術が発達し、これらの武器は鉄製のものに変り、破壊力がいちじるしく増大した。新型兵器として、遠方まで射ることのできる弩機が発明されたほか、このIにもみられるように雲梯や、「鉤拒」(こうきょ)といわれる舟戦の兵器が登場した。密集隊形で戦う戦闘形式は、これら新兵器の登場で不利となり、歩兵を主力とする野戦・包囲戦が支配的となった。そのため戦争の性格も持久戦、長期戦の様相を呈するようになった。大量の兵員を必要とするようになったため、各国は徴兵制度を布いて、兵力の増強にっとめた。泰代になって確立された「郡県」制度のねらいは、ひとつにはこの徴兵義務をスムーズに行なうためであった。この徴兵制度の制定で多くの農民が戦争にかりたてられた。 こういう大規模な戦争は、ばく大な軍事上の支出をともなうから、当然、国家の財政負担を増大させる。そして、その負担は、民衆にしわ寄せられた。春秋から戦国にかけて、大規模な農民暴動がいくつか起きているが、これは農民に対する苛酷な収奪を示すものである。 墨子の「非攻」論は、こういう背景のもとに生まれた。



脚注及び関連資料

    1. 渡部卓『古代中国思想の研究』 創文社、1973年。
    2. 孫詒譲『墨子間詁』(注釈原典) 富山房、1984年。ISBN 4-572-00076-X
    3. 薮内清『墨子』(比較的容易に手に入る墨子の全訳、研究本)平凡社東洋文庫、1996年。 ISBN 4-582-80599-X
    4. 浅野裕一『墨子』講談社学術文庫、1998年。ISBN 4-06-159319-6
    5. 和田武司訳『墨子 中国の思想5』徳間書店、1964年 この論考の訳はこの書から引用している。
    6. 酒見賢一『墨攻』 (新潮社、1991年3月発行、ISBN 4103751038) 
    7. 中國哲學書電子化計劃http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=101&if=gb





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