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特集|東日本大震災から学ぶボランティア

3.11 東日本大震災の災害から学ぶ点はなにか、この貴重な体験をまとめた、『週末は東北へ 災害ボランティア・ブック』(平凡社)を下に見えてくるモノを考えてみました。

だれにでも必ずできることがある

被災地で、まずやらなければならないこと

  東日本大震災の翌々日、私たちは現地入りしました。宮城県登米市に現地本部を置き、民間ボランティア・センターとしてRQ市民災害救援センターを 立ち上げました。地元の社会福祉協議会や民間のボランティア・グループと連携しながら、宮城県の仙台以北の太平洋側、三陸海岸の南部約100kmのエリ アを対象に活動しています。
 自然災害ボランティアの役割は、ボランティア・センターや作業を統括するボランティア・コーディネーター、現場でチームを指揮するボランティア・リーダー、そして個々のボランティアの三つに分けることができます。
 私たちボランティア・コーディネーターの仕事は、まず災害の現場に行って状況を把握したのち、全国から「何かできることを」の熱い思いで集まったボランティアたちの活動の「場」を作ることから始まります。単独行動だと地元に受け入れられるのは難しいのです。「ボランティア」は肩書きではなく、活動の姿そのものです。被災地の人々にとって「よそ者」である私たちを、「ボランティアの姿」に見えるようにしなければなりません。そのため、ボランティア・センターを立ち上げ、ボランティア活動をコーディネートする体制を作ります。

刻々と変わる被災者ニーズ

 東日本大震災では、海溝型の巨大地震によって発生した津波による水害が甚大でした。今回ボランティア活動の多くの情報が発信されている石巻市(宮 城県)は、仙台平野の一角にあり、広い範囲で浸水しつつも、全壊・半壊していない家屋も多かった。そのため、ボランティアの活動は、ヘルメットにゴーグル、マスクに長靴といった装備で、家屋の床下や道路の側溝の泥出し作業などをするというイメージが世間には広がっているようです。
 しかし、そうした水害復旧作業は、全体の活動のごく一部に過ぎません。災害ボランティアの目的は被災者への支援です。被災者の気持ちがどこにあり、切実に何を求めているかを探ることが最も重要なのです。時間の経過によって求められるものは変化していくため、「その時、その地域」で被災者が必要とする作業を行うことこそが、ボランティアの仕事といえます。
 実際に現場で行われているボランティアの活動内容は多岐にわたります。避難所だけでも、炊き出し、入浴施設への送迎、物資の仕分け、お年寄りの介護、子どもたちの遊び相手などさまざまです。時間が経つにつれ、瓦陳の片付けや泥出しなどの体力のいる作業は減っていきますが、東北太平洋側沿岸では、海岸の清掃などまだまだ体力作業は必要とされるでしょう。

きめ細かな対応を

 被災者がまず望んだのは、瓦磯の処理より避難所でのケアでした。しかし、たくさんのボランティアの手により実際に瓦磯が撤去され、目に見えて自分たちの生活していた区域がきれいになってくると、被災者の心に希望の灯がともったのも事実です。行政は道路など、インフラ部分の整備にはいち早く手をつけてくれますが、少しはずれたところには、なかなか手が回りません。我々民間の組織は機動性を生かして、個々の被災者の希望に細か<応えていきたいと考えています。
 また、何もかもきれいに片付けてしまうことだけを被災者の皆さんが望んでいるわけではありません。片付けることは個人の大切な思い出を整理してしまうことにもなり、喪失態をもたらすこともあります。
 RQでは、津波によって失われた被災前の生活を記録として残すため、現地の人々からの聞き取り調査など、新たな作業にも徐々に取り組んでいきます。

往災地の首長から

一度この地に立ち、現状を見て、伝えてほしい

岩手県山田町町長 沼崎喜一

 大津波の直後に発生した火災によって、商店街や住宅地が灰塵に帰しました。全国各地から寄せられた支援物資とボランティアの皆さんには大いに助 けられています。瓦嗅の撤去作業が進み、8月のお盆までには、希望者は仮設住宅に移れるでしょう。
 しかし、応急復旧の次段階も困難の連続です。仮設住宅入居についていえば、避難所での集団生活から家族ごとの暮らしに戻れるのですから、「住」 の観点では一歩前進です。その反面、1日3食のサービスは受けられなくなります。基幹産業である漁業・水産加工業の拠点が失われたため、失職した 方も多いので、仮設住宅暮らしは新たな苦難のスタートでもあるのです。
 海岸近くにある我が家は51年前のチリ地震津波に続き、今回も流されました。何度も津波に襲われてきた地区ですし、先祖伝来の土地でもあるので、 また建て直せばよいという思考で、地区のほば全戸が同じ場所に暮らし続けてきたのです。ところが今は皆さん、「怖くて住めない」と言います。被災後の気持ちのありようが、51年前とはまったく異なります。高台に移住するには、宅地造成という重い負担が、財政基盤の脆弱な町にのしかかります。
 緊急雇用対策の延長と合わせて、海岸線の私有地買い上げと防潮林整備などを国に強く訴えています。町民への安全と安心の保障、それが切なる望みです。 町を訪れた方たちは異口同音に「被災地の様子は知っているつもりだったが、これほどひどいとは思わなかった」とおっしやいます。観光でもけっこうです。皆さん、ぜひ一度この地に立って、惨状をご覧になってください。津波の恐ろしさを目に焼き付けて、周囲に広め、防災について考えるきっかけにしていただきたいと考えています。(2011年7月取材)


広がる支援の輪。気負いのないお手伝いがありがたい

宮城県山元町々町 斎藤俊夫

 山元町はこれまで自然災害とはあまり縁がなく、「東北の湘南」と称されらほど、穏やかで住みよい町として知ぃれていました。あの日は皆さん、着の身着のままで避難し、冷たい泥に濡几だ体で耐えました。日頃から住民同1-の繋がりが深いので、被災当初はお斤いが支え合っていたのです。次第に用外、県外から衣類や寝具が届き、ボランティアが炊き出しに駆け付けてくれました。  津波は命や財産だけでなく、絆や思い出も奪います。自己の存在さえ否定されるような凄惨な災害です。私の自宅もひとたまりもなく流されました。これはどの大災害ですと行政だけでは手に負えません。また、家を家族だけで片付け続けるのは、気のめいる作業です。お身内が犠牲になった方はなおのこと作業が手に付かず、収入が途絶えた方は経済的に追い詰められます。
 それだけに、アドラ・ジャパンをはじめとするNPO団体や行政・医療・介護面での他自治体、個人ボランティアを含めた支え合いの動きは、何にも増してありかたいものです。物心両面で大きな力を与えていただいています。
 現在では、町の災害ボランティアセンターに1日平均、平日で40〜50人、週末には約200人がおいでになります。人のために尽くしたいという奉仕の気持ちを素直に行動に移してくださる方々に接して、改めて日本人の素晴らしさを感じています。  田畑に残る細かいゴミの処理、散乱した墓石の整理など、悩みはつきません。30.8%と高齢化率の高い自治体ですから、仮設住宅の入居が進めば、安 否確認のための巡回なども重要になります。衣食の次に必要となる、心の交流の分野でのサポートも大歓迎です。ご自分のできることから、肩肘を張らずに、支援の輪に加わっていただければと思います。   (2011年了月取材)


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