コンピューターは人の心を熱くするか





浜野保樹 著 『マルチメディア マインド』

浜野 保樹(1951年4月11日 - )は、東京大学新領域創成科学研究科教授。専門はコミュニケーション論、メディア論など。兵庫県生まれ。1975年国際基督教大学卒、1980年同大学院博士後期課程単位取得退学、助手、1982年新潟大学助手、1983年メディア教育開発センター助教授、1999年東大情報学研究科助教授、2003年「コンテント制作のロジスティックスに関する研究」で東京大学工学博士、2004年現職。映像論、アニメ評論などの著訳書も多く、スタンリー・キューブリックに関するものが著名だが、1993年には岩波新書で刊行した『小津安二郎』が、高橋治や佐藤忠男の関連著作と、よく類似していると指摘され短期間で絶版となった。なお当人は、同じ資料を使っただけと弁明した。「歌舞伎を救った男」とされるフォービアン・バワーズについて、GHQの公開文書に基づき疑念を投げかけた米国学者の説に依拠しつつ、その虚偽を明らかにした(『偽りの民主主義』)。


アナログのゲームは終わった 〜前書きにかえて〜

認識の装置、マスメディアからの脱却

新しいメディア テクノロジーを作ることは、新しい認識を作ることだ。メディア・テクノロジーは、認識のための手段だと言っても過言ではなく、体験から得られる認識だけではなく、メディア・テクノロジーの数だけ認識がある。マルチメディアがメディア・テクノロジーならば、また新しい認識の方法を生み出すにちがいない。では何を認識するのか。「現実」であるというのが、もっとも妥当な答えだろう。しかし、われわれの認識の中にあって、直接確認できる現実の領域はメディア・テクノロジーによって伝えられる現実に次第に侵食されている。それだけでなく、現実というものそれ自体の概念がメディア・テクノロジーによって揺らぎつつある。「現実」の問題は、ヴァルター・ベンヤミンが展開した本物と複製という議論を超越してしまった。人工生命(Artfical Life)と総称されている試みでは、メディア・テクノロジーで作り出した映像そのものが遺伝子のようなものを持っていて、刻々と自律的に変化していく。オリジナルも複製もなく複製したものも自律的に変化していくために、またオリジナルWalter Benjaminたりえるのである。同じものは一つもなく、同じなのは概念だけである。映像そのものが生きているのだ。(ちなみに人工生命の隆盛は、ロボットや人工知能など、人間を再現するという呪縛から、科学が解きはなたれたとも、また、一局い理想から後退したとも解釈できる。)1990年前後から、テレビ番組や映画などのドラマについて、詳しい検討を加えるような本が流行し始めた。サザエさん、ウルトラマン、ゴジラといった、俳優が演じたものではなく、アニメーションや待撮など、それこそ完全なる虚構を現実のように分析する。たしかに、テレビとともに育った世代は、思い出の大半が映像で見たことであったりする。たとえ、それが虚構であっても、夢中になって見た世代にとっては、記憶の中では現実であることは否定できない。いつでも主人公が音のままで現れるアニメーションや特撮は、記憶を常に覚醒させるシステムになっている。ベンヤミンとともに、Herbert Marshall McLuhanマーシャル・マクルーハンは20世紀のメディア論を決定づけた巨人である。しかし、ベンヤミン同様、マクルーハンの枠組みではくくりきれないことが起こっている。マクルーハンの著作を読むと、すぐに気がつくことは人間の姿が見えないということだ。それは、彼がマスメディアを前提にしているからに他ならない。彼は、メディア・テクノロジーが個人の手に渡るということを考えることができなかった。しかし、この本の中で繰り返し述べているように、マルチメディアはパーソナル・メディアたりえるだけでなく、巨大な資本を持つマスメディアしか持てなかった表現や発信の力を個人に与えるものとなりつつある。ベンヤミンとマクルーハンはマスメディアを理解する上での、優れた視点をわれわれに与えてくれた。しかし、ベンヤミンとマクルーハンが、装置産業化せぎるをえなかったマスメディアを前捉にしているが故に、二人の枠組みから離れなければ、新しいメディア テクノロジーの本質を見失ってしまう。そういった思いが、『イデオロギーとしてのメディア」という本の形になった。本書は『イデオロギーとしてのメディア』を引き継ぐものとなっている

マルチメディアの本当の意味は

Jules Verne本書に納めた文章のほとんどは、『イデオロギーとしてのメディア』の後、雑誌に掲載したものの中から、マルチメディァについて書いたものを集めたものだ。とはいっても、マルチメディアそのもののシステムやソフトウェアについて語ったものではない。内容(content)、形式(form)、流通(distribution)が、マルチメディアの三大要素といわれている。形式とは、内容を入れる器であって、専門家にプラットフォームと呼ばれている機器のことである。本書は、このいずれについても具体的に解説したものでもない。かつて、ジュール・ヴェルヌは、交通手段と通信手段の最新の知識を結集して『八十日間世界一周』というSF小説を書い。1872年にはSF小説であったものが、今では、古典冒険小説のように読まれている。現在の読者がウィリアム・ギブスンのWilliam Ford Gibson『ニューロマンサー』を読むようにして、当時の読者は『八十日間世界一周」を読んだにちがいない。アインシュタインが言うように、必要なのはイマジネーションなのだ。テクノロジー側から語るのではなく、人間や社会の側に立つ。つまリテクノロジーからではなく、人間や社会についてのヴィジョンからマルチメディアを見る視点について書いてきた。その視点を明確にするために、私個人が望むようなメディア テクノロジーを手にした時、今の環境からは見えないものがどのように浮かび上がってくるかといったことも試みてみた。その新しいメディア・テクノロジーをマルチメディアと総称していたにすぎない。本書の題名も、そういったことからつけた。マルチメディアという言葉は分かりにくいといわれる。私も何度かマルチメディアの定義に関する文章を書いたことがあるが、マルチメディアはデジタル革命の別称ないしは通称にすぎないと思っている。そのために、マルチメディアの最も単純な定義は、情報をデジタル化するツールということになるかもしれない。そして、デジタル化の恩恵を受けることが最も遅かった映像こそが、デジタル化によって最も大きな変化をこうむることになろう。以前から映像表現の技術は存在していたが、個人の手には届かなかった。映像は、一定の時間が過ぎれば終わるという消費しやすい特性と、複製が難しく個人所有できなかったという条件から、大衆商品として適しており、マスメディアの中核を占めていた。そのことも手伝ってか、多くの知的エリートは映像に背を向ける。彼らが、映像を落としめ、侮蔑するのは、自分自身が映像の表現者という自覚を持てないからである。映像を復権させるには、マスメディアの根を断たなければならない。



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